かかしの旦那

大学2年目のとき、学生寮の近くに「かかし食堂」という定食屋が開店した。
寮の食事に辟易していた私たちは、その食堂に入り浸るようになった。
経営していたのは若い夫婦で、年も私たちとそう違わなかった。店を閉めたあとで、
夜中まで麻雀をして遊んだ。1年ほどそこでバイトをさせてもらったこともある。
「かかしの旦那」は、私たちがその食堂の主人に贈った渾名である。


根っからの善人で、超一級のお人好し。みんなでワイワイやるのが大好きで、
困っている人を見ると放っておけない。絵に描いたような好人物だった。
そんな人だったから、貸した金が返ってこなかったり、他人から裏切られることも
しばしばだったが、少しもめげない。ひたすら善人で、お人好しで、世話好きだった。


無条件で信頼できる人だった。この人になら自分の命を預けられると思っていた。
どんな状況になろうと裏切られることはないと、腹の底から確信できる人だった。
にもかかわらず、社会人となった私はいつしか「かかしの旦那」と次第に距離を
置くようになっていった。年賀状のやりとりと、たまの電話ぐらい。
仕事が忙しかったこともあるが、あまりのお人好しぶりについていけなかった、
というのが正直なところだったように思う。
人間としての器が、「かかしの旦那」と私ではそれほど違っていた。


久しぶりに正月に電話を入れた。奥さんが出た。「たまには会いたいね」という
話になった。「そのうちに女房と訪ねて行くよ」と言うと、
「それなら、なるべく早いほうがいいかな」と気にかかる言い方をする。
聞けば、「かかしの旦那」は数年前に癌を発病し、二度ほど手術をし、
いまはリンパ節に転移しているとのことだった。


それからまた頻繁に会うようになった。その年の3月には、かつて「かかし食堂」に
出入りしていた仲間に連絡をとって「案山子の会」なる集いを開いた。
建材会社の社長になっていた「かかしの旦那」も元気に参加し、温泉に入ったり、
麻雀を打ったりした。次の年も「案山子の会」を開催した。「かかしの旦那」も
参加したが、体力は明らかに落ちているようだった。


年末に国立がんセンターへ入院した「かかしの旦那」は、年が明けてから
ターミナルケア施設へ転院した。最新の医療技術をもってしても、癌の進行を
止めることはできなかった。しかしそうした状況下でも、私は「きっとよくなる」と
信じていた。極めて根拠の乏しい理由だが、「こんないい人が癌で死ぬはずはない」と思っていた。奥さんもそう信じていた。「かかしの旦那」もそう思っていたと思う。


ターミナルケア施設へ移ってからも、体調がいいときは歩行補助具を使って歩行練習に
励んだ。元気な頃に比べるとかなりほっそりしていたが、それでも180cmの身長に
70kgを超える体重があった。自分の子供くらいの若い看護師に向かって、
「悪いね。おれ、身体でかいから大変だろ」と声をかける。そんな人だった。


「かかしの旦那」の死は、娘さんからの電話で知った。3月の上旬だった。
私の父も“いい顔”をして逝ったが、これほど“きれいな”死顔を見たことがなかった。
うっすらと笑いを浮かべた、仏様のような顔をしていた。
頬が少しピンクに染まっていた。


決して人を悪くいわない人だった。わたしが耳にした他人に対する最も否定的な言葉は、「おれには、ああいう真似はできないよなぁ」だった。家族が他人の悪口をいうのを
聞くのも嫌いだった。「人を恨んだって何にもならないよ」と諭すように言っていた。


「かかしの旦那」に少しでも近づきたいと思いながら、足元にも及ばない自分がいる。

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